昭和50年08月03日 朝の御理解



 御理解 第70節
 「人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせねばならぬ。」

 万物を観る目を養わなければいけません。どんな小さい事にでも、それを揺るがせにしない。昨日先日講師に見えた、先生が合楽の信心、私の信心をそう見てとって帰られたと云う事が、葉書に書いて御座いましたね。昨日読ませて頂いた。どんな小さい事でも、それをあだやおろそかにしない。万物を見て道理に合う信心をせねばならぬと。ですからどんなに万物が天地の道理に合うた、在り方であるかと云う事であっても。その見る目が無かったらいけない。
 久留米の初代がおいでられる時に福岡の三代の吉木先生が、先生御神徳と云うものはどういう信心をさせて頂いたら頂けるものですかと云うて、お伺いをされた。その時に万物を見る目、いうならどういう小さい物でも見逃さんごと見て行く事じゃと云う意味の事を話されたと云う事です。云うならです、人間は万物の霊長と云われる、霊長としての言わば、値打を段々発揮して行く事が出来る。万物の霊長としての値打を発揮できると云うことが、私は神徳だと思うですね。
 如何に人間が万物の霊長だと云うておってもです、心の状態がそれこそ、虫けらにも劣る様な心の状態で、霊長としての値打を発揮できる筈がない。成程道理だと合点が行く。金光様の信心はどこまでも道理に合うた信心だから、合点が行くのです誰でも。昭和28年の大洪水の時でした。当時の椛目も、もうそれこそ家の前を船がどんどん行き交う。私の方の二階から下の方を見ると、もうすぐ前を家がどんどん流れて行く。材木がどんどん流れて行く。流れて行く家の上に人が立って救いを求めておる。
 と云った様なまあ悲惨な事で御座いました。もう鐘やら太鼓がどんどん不気味なごと鳴ります。それにサイレンが鳴る。もうそれこそ日頃は偉そうな事を云うておる人達でも、屋根の上に上がって助けて呉れ、助けて呉れと云って叫びよんなさる声が聞こえて來る。当時私の方の二階が四畳と六畳と二畳位だったかね、こちらの部屋があった所に、どれだけ人数がおったでしょうか。修行しよる方達文男先生もおりましたが、十何人だったでしょうかね。もうそれこそ大変な様相で御座いましたがです。
 その六畳と三畳にびっしりお重箱に何か詰めた様にしておった訳ですけれども、私はやっぱり毎日毎日紋付羽織を付けて御神前奉仕をしておりました。ですから皆が一つも心配をしない訳ですね。親先生があげんしてあるから、大丈夫だと思うとるですね。只真からの安心と云う事ではないでしょうけれども、親先生がああしておって頂く間は大丈夫と云う風に思うたんでしょう。
 所が二階の廊下まで水が上がって参りました。その時初めて父がまあとにかく落ち着いた人ですし、だけれども初めて私が座っとる所にやって来て、先生もう愈々いかんばいと云うてやって来ました。それで私が丁度朝から四時までも御結界奉仕で御座いましたからね。その当時は私が四時までおかげを頂く様にお願いをしとるから、四時まで待ちなさいと私が申しました。皆安心して四時まで待った訳です。
 もう四時が境でした水が引き出したのは。あれをおよたれよったら、よそさんの様に助けてくれ、助けてくれと云わにゃならんじゃろうと思う。そういう時に西日本新聞と役場の方達が船に乗って、とにかく私の家の横が小川で御座いますから小川を流れる早い流れで船がそこを横切り切らん位あったです。家の東側のそれを危険を冒して新聞社のニュースを作る方達が写真班やらニュースの方達が消防団に守られて前を通った。
 その時に私共が窓際に立ってそれを見て居った。あんまりのうのうとしておるから腹が立ったんでしょうね。消防の人達がですねあんまりのうのうとしとるから、あんまり落ち着き過ぎとると云う意味でしょう「いざと云う時にくろぼえるな」と云うて行きました。その時に私共全部居る者が窓際に立って様子を見て居るのをそのカメラマンの方が写真に写しておるのが役場に掲示されたんです。
 それを役場に勤めて居った方が、妹の知合いがあなたの所の一家中があの大水の時に写してある写真があるから貰うて来てあげたと云うて、それが今ここに残っております。ああ云う時に、しかもあれだけの人数の者がどうしてあれだけ落ち着き払うておられたであろうか。まるで見物しておる様にしておった写真が残っとります。それがどうして私が安心しきっておれたかと云うとです、神様にお願いさして頂いとりましたら、もう水は刻刻と増しております。
 もう二階の屋根の一尺位の所まで水が来ているのです。その瓦の上にです蛙がね、ギッチャンバッチャンしてから、遊びよる所を頂いたんです。御心眼に蛙がそして御理解に人間は万物の霊長であると同時にです、人間だけではないそういう冷血動物と云われる様な蛙やら蛇ですらもね、一つの霊感と云うものを持っていると言う事です。蛇なんかがどんどん、どんどん上に上りだしたらです、大水はどんどん水はいみる時と云われとります。いやこれは、蛇が高上がりしよるがこれは大水が入るかも知れんと申します。
 蛙がねどんどん上に飛んで上がるときは、矢張り危ない時だけども、こうやって楽しそうに遊んでおる。だから私が父がお届けに来た時にお知らせを頂いた。とにかく屋根の上ば見てご覧、そしたら蛙が上さん上がらずに横に遊んでおる様に、大水の時は沢山の虫けらが上がって来ますからね。水打ち際に蛙が横に遊んでおる。これは事実です。ですからこの蛙が上さんでん飛ぶごたる時には、こりゃ少し慌てにゃならん時だけれども、蛙がこうやって横に遊んどる時には決して心配はいらんよと私が申しました。
 道理を見る眼と云うものをすると、もう本当に素晴らしいです。どういう一つの虫けらでも心を使うね。ですから先ず人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心と、如何に人間は万物の霊長だと云うて威張った所でです、道理を弁えない道理を身に付けなかったらおかげになりません。問題はです何と申しましょうかね。威張る人がありますね非常に。先生方でもね非常に威張って偉そうに話す人があります。そういう処では人は助からんです。
 威張る心と云うものが、神様がお嫌いになるのかも知れません。けれどもこれは道理だと思います。私はそれにつけても思いますのは母の信心です。母がね親を何と思うとるかとかね、と云う意味の事をね、まず云うた事も聞いた事も、態度にも示した事は御座いませんでしたね。あんたどん親を何と思うとるかとね。ですから嫁に対してでも、孫に対してでもです。そういう態度がさらさら見えませんでしたから。
 私の方は家の家内もそうですが、嫁達も右へならえでそういう一つの風と云うものが大坪の家風の中にあります。よく言いますね、親を何と思うとるか、あれは威張っとるからです。親と思うて威張っとるからです。もうこれは絶対ですね。もうこれは道理なんです。威張ったらおかげは受けられんと言う事です。もう威張る人はおかげ頂かんです。確かにおかげ頂かんです。
 水は低い所へ低い所へしか流れませんね。もう本当に自分の心を見極め、自分の足元を見つめて行くと云う行き方におかげがあります。これはもう絶対の道理なんです。水が高い所へ流れるなんて聞いた事が無いでしょう。水は低い所低い所へしか流れんのです。おかげと云うものは、お恵と云うものは水の様なものです。ですから辞を低うしとる。これはね自分を卑下する人がありますね。もう私のごたるとはつまらんと本当に自分をつまらんと思い込んどるですね。そう言った様な卑下する。
 それじゃない自分自身が見えれば見える程、分かれば分かる程いわゆる教祖のお言葉をすると、無学の百姓で何も知らん。何も分からんと云うておられるのです。もう人からも生神様と云われる様な、言わば地位を神様から頂いとられてでも、矢張り無学の百姓として遜っておられる。生神金光大神としての権威を示さねばならん時には、それこそ確信を持って人に教えておられます。けれども、自分自身に還えられた時には無学の百姓で何も分からんとこう言うておられる。
 私がやっぱりおかげを頂くのもです、それこそ無学の商人だと何時も自覚しとるからです。第一ですね、腹が立たんです。もう腹が立つ時には、もう絶対自分を買い被っとる時です。ですからね、これは自分を測る度合になります。尺度です私の様な者がと云う時に腹が立つ筈がないです。成程母がおかげを受けた筈だなあ、遷霊の晩に霊様に御挨拶さして貰いよりましたら、粟の穂がこう垂れ下がっとる所を頂いた。
 成程母の一生はそういう生き方だったなあ、粟と云えば穀物その中でも素朴な穀物。人に教えがましい事を言うた事がなかったですね。只自分が身をもって示して行くだけで、私の家内もまあ体得しようと思うた訳じゃないけれども、結局姑親に似て来た。なら私の方の嫁達にも同じ様な事が言えれる。姑親の私をあんたどん何と思うとるのと云った様な、嫁に対してそういう態度をとらないです。
 ですからまず腹を立てる事が、まず立てる事がないです。自分と云うものがへり下っておるからです。まず腹が立つ時には、自分と云うものを見失っとる時だと悟らせて貰うて、見ること見ること、それこそ自分を見ることであります。例えば棟上げの時餅を蒔きましょうが。私共子供の時今は余りないですけど、餅をこう蒔きます。よう拾いに行きましたよ。それで投げてやらっしゃる所へ、おっちゃんここここ呼ぶけん、こう投げてやりござるです。所がおっちゃんここここと云いよる者は拾いださんです。
 もうそげな事じゃなか、下ばっかり向いとるとが沢山拾うです。 もう拾おうと思いよる時人が拾うとる。ほんな云いよるだけおっちゃんここここと云いよるけん、投げてやりよる。そりゃもう結局他の者が拾うてしまう。結局自分が地に這う様にです、辞を低うするならばです、夫婦喧嘩もなくなるでしょう。親子喧嘩は勿論でしょう。社会に出てももう腹が立ってと云う事もなくなるでしょう。
 今日はね私はここだけは皆さんが分かって頂きたい。と云う事はね万物を見て道理に合うと云う事です。低い所にしか水は流れない事を一つ覚えて帰って頂きたいおかげは頂きたい、それであって自分が上を向いて唾を吐く様な威張り方をして、威張ってです威張っておっておかげの頂ける筈はない。高慢ちきなそういう心の状態の所へおかげが流れて來る筈は絶対ないです。
 もうこれは自分の周囲をずうっと見てご覧なさい。もう威張る人はおかげを頂かんです。そりゃね、お取次頂いてお願いをすりゃ、例えどういう悪い心の人であろうが、どういう人でもお取次を頂いて金光大神のお徳でおかげを受けますけども、もうそれこそ自然に自然にです、高いところから低いところへ水が流れる様なおかげは頂かんです。これは道理だからです。おかげを頂く道理だ、おかげを頂かん道理だ。ここんところをね、一つおかげを頂かれたら有難い。
 それには只、辞を低うしとるだけで頭をペコペコ下げとらんならんと云う意味じゃないです。本当に自分の様なつまらない者の自覚です。われ本当に屑の子の自覚です。信心も出来んのにこの様なおかげを頂いてと云う自覚です。昨日は福岡の徳久さんところの主人の二十年の霊の式年祭が御座いました。皆子供達孫達が集まりました。弟の正治君も婚約をしておると云う彼女を連れて参って来とりました。私は知りませんでした。見知らぬはあ親戚の方かなあと思いました。
 そしてお祭りは四時からでしたから、お祭りを仕えさせて頂いたんですけど、あのテレビで牧師さんの様な格好をしてね、黒いそして片手にバイブルを持ってから、あれは漫談家か何かですかね、と云うのが私は何回か見た事があるのです。テレビでね丁度牧師さんの様な格好をしとるんですよ。バイブルを片手にこう持っているのです。気を付けておってご覧、そういうのが出てますよ。テレビ司会が何かしとる。何かそんな様な事だったと思います。あの人の姿を頂くのです。
 次にはホーヅキですね。ホーヅキを一本頂きました。そして下の方が二つ三つ赤く熟れ出した所を頂いた。それで祭り済まして頂いてから、その事を聞いて頂いたんですけどね。兄弟が三人居ります。兄さんの方は奥さんを貰うて、二人おって今度三人目が出来る。ところが正治さんはもう三十にもなりはしないでしょうか。けどまだ奥さんに恵まれていない。それから姉さんが、もうこれは一番上の姉さんですが、まだもうやんがてオールドミスになろうとしています。
 ですからそういう例えば子供達が幸せな結婚生活に入って行くと云う、そういうおかげを頂く事によって御霊様も安心であり喜びである。いわゆる遺族の者が幸せな生活が霊の喜びである。それが段々おかげを頂いて、あのホーヅキが段々二つ三つ赤く熟れかかっっておる、上には段々青いのが成っておるでしょう。ですからもうこれは近い将来にね、おかげ頂くよと、それこそホーヅキのあれのごと、末はフーフである。
 後で聞かせて頂いて正治君の婚約者であると聞かせて頂くと、もう本当に神様は見通しだなあと皆で云うた事です。もう出来かかっとる、熟れかかっとる訳です。同時にそのおかげを頂いて行く事の為にはね、今までの様な、今の様な信心ではいけないよと云う事なんです。親先生が御大祭のたんびんにこちらへ見えてから、お給仕をするのにね、親先生が必ず徳久さんを指名されました。
 行き届いてありますしね、謙虚な態度でありますしね。そしてあの人はよか信心が出来よるじゃろう、そしてとても褒めちぎっておられました。親先生が褒められたのはあの人と、そこの野口さんだけでした。ああよか信者が出来よると云うてから、徳久さんなんかは、もう見かけは素晴らしかです。丁度ですそれこそバイブル片手にその黒衣を着ておる牧師さんの様な感じです。けれどもそれは、どこまでもごたるだけであってね、中味は違うと云う事です。
 だからそういうおかげの頂けれる内容、徳久さんお母さん自身が持っておるから本当なものを目指さなければいけない。今のままでは今のまま。ですから言わば三人の子供達が皆親孝行です。けど本当の親孝行をしうごつしてたまらんと云うごたる親孝行でなければ、親孝行じゃないと、それには先ずお母さんの信心自身がです。本当に見かけは本当のもののごとしとるけど、本当のものでない自覚を自分で見極めて、そしてそこから本当のものになる事はなかなかですけれども。
 本当のものになろうと云う姿勢だけを示して一歩一歩近づいて行く精進をしなければいけない。そこからね、あれも整い、これも整いと云うおかげになって來る。それがとりも直さず霊様の喜びだと云う話を聞いて頂いた。もう自分はこれで良い様に思うておるところに、腹が立ったりするんです。嫁が自分を軽う見たと云う事になったり、息子が言う事を聞かんと云う事になって來るのです。自分が本当の事を目指せば目指すだけ、いよいよ自分が分かって來る。
 分かって來ると愈々辞を低うせねばおられない。心が何時も私の様な者がこの様なおかげを頂いて、本当な事も出来んのに、こんなおかげを頂いてと云う様なおかげが流れて來るのです。これはもう道理です。高い所から低い所へ水が流れて來るのが道理であります様に、おかげも矢張り低い所へ低い所へしか流れませんと云う事です。自分の心に威張る心、高慢ちきな心、そういう心を改めてご覧なさい。もう自分の様なものがだけしか残りません。おかげはそう云う所を選んで流れて來るです。
 万物の霊長。霊が清められて参りますとです、その霊長としての値打を発揮する事が出来る様になります。それこそ蛇や蛙ですら、照る降るの事が分かると云うのですから。まして人間万物の霊長が、降る照るの事一つ分からん様な事では、如何にその霊性と云うものが汚れきっておるかと云う事を。思わなければいけない。それが研かれて行く時にです、それこそどういう小さい事でも見逃さんで済む道が開けて來る。
 そこに何時も謙虚な姿勢、謙虚な態度と云うものが自ずとにじみ出て來る。口には言わんけれども、態度の中にちゃんと出て來る。私の母がああしておかげを受けたのはそういう様な、改めてその事を今日私は思わして頂きました。一つ本当に自分が分からせて貰うて本気で自分と云うものを、云うなら最低のところへ置かんならんと云うよりもね、そういう本当に無学の百姓であり、無学の商人としての自覚です。我屑の子であるとの自覚です。我この様な屑の子であるにも拘りませず。
 神様はこの様なおかげを下されて有難い。おかげがそこに流れて來る。ですから愈々有難いものであり、勿体ないものになって來るから、もう愈々頭が下がるより仕方が無いのです。今日はここん所を一つ本気で、自分の胸に手を置いて考えてみて、ああ自分がおかげ頂かん筈だと云うものを分かり、そしておかげを頂く道理だと云うその道理を分からせて貰うたら、愈々有難い勿体ないの生活が出来ると思うですね。
   どうぞ。